2014年11月13日木曜日

白洲正子 『世阿弥』を読んで

世阿弥 ―花と幽玄の世界―
白洲正子
講談社文芸文庫


心に残った部分書き出し。

*世阿弥にとって幽玄とは(p.120-121)

「我と工夫して、その主に成り入るを、幽玄の境に入るものとは申すなり」
幽玄は外部にはない、ただ工夫をつくしてみずから幽玄と化す。
幽玄すら物真似の一部。
武士の憧憬であった王朝文化の理想を獲得するため、代々の将軍が、貴族を手本としながら、ついに果たすことのできなかった夢を、世阿弥が舞台に実現した。
こうして和歌の道を離れ、貴族の手から民衆的な、明るい舞台に移されていった。

*総合芸術であるお能(p.127)

お能は、一口に総合芸術と呼ばれますが、それはドラマと舞踊、シテ方と狂言と囃子方、そういったものの集まりというだけでなく、いくつかの申楽、田楽、呪師、延年、曲舞、白拍子、傀儡など、当時行われたあらゆる芸能の集大成とみていいのです。
それらはやがて消え去る運命にありましたが、大和申楽に圧倒されたというより、その中に吸収されたという方が正しいでしょう。

*象徴と神秘の能(p.142)

お能はよく神秘的な芸術といわれますが、ただいたずらに神秘的なのではない、物の初めの無垢な姿を、いかにして舞台に再現するか、その工夫と技巧が、謎めいた様相をあたえているにすぎません。神秘化したのは、むしろ後世の人々の罪で、勿体づけるために、ことさら秘密主義にしたのですが、世阿弥の秘事や口伝には、そんな虚栄めいたものはなく、あるいは初心、あるいは花と名付けて、ひたすらその純粋性を守ろうとした。

*仮面の芸術(p.148)

面も、はじめは信仰から生まれたもので、今でも方々の神社に、ご神体としてまつられていますが、翁の能でみたように、それを役者がつけて舞い、神様の物まねをやった後、再び神社に収めたものでしょう。が、だんだん演技が発達するにつれ、役者も見物もそれでは満足しなくなって、ドラマがそこから生まれてくるとともに、仮面劇も信仰をはなれて、舞台芸術に成長していきました。

仮面を仮面のまま高度な芸術に育て上げたのはおそらく日本人だけで、それはたとえば原始的な焼き物の中から、お茶の茶碗を発見したことや、あるいは自然の風景を人工の庭に取り入れた造園法などとも共通するものがあると思います。

世阿弥が人間の姿を「花」と呼んだのも、ただ美しい花にたとえたのではなく、ある特定な花でもなく、移り変わるところに美をみたことは、前に書きました。能面もそれと異なるものではない。
 


*白洲正子の幸福論 水原紫苑の解説より(p.216-218

  人間の命は終わっても、終わりのない能の世界と、生涯初心を貫いて芸が上り坂のまま、これが最期という時もなく終わる名人の人生とは、「奥を見せない」深い美しさで一致する。

『花鏡』を書いた世阿弥の心中に去来していたのは、裏腹のままならない嘆きであったかもしれないが、たしかにこれこそ、普遍的な人間の幸福への道にちがいない。甘美な果実のような幸福ではなく、月光にきらめく塩のような幸福である。そしてまさに、白洲正子はこの幸福を実現しようとしている人なのであろう。

「度々いいますように、世阿弥の一生をつらぬいている思想は、今の言葉でいえば一種の幸福論ですが、晩年におそった数々の不幸は、天が与えた試練のようにも見えます。が、世阿弥の芸は、もうその頃には、時世や逆境の前にびくともしない、見事な人間を作り上げていました。」
 
 世阿弥は、最後には、舞台からも、申楽からも解放され、宇宙の調和の中に没した感があると語るのだ。 

 著者が出逢った世阿弥の「花」は白日の下に明るく開き、「幽玄」もまた翳りなく明るい。中世の「稚児」への愛も明るく美しいのである。九十九パーセントの闇に支えられた一パーセントの光を、それと知りつつ愛でるのが白洲正子の精神である。潔さでもあり、最も深いデカダンスでもある。
 本当の意味で「個」の悦楽を知る人とは、著者のようであるにちがいない。愛したいものを愛し抜き、そのいのちの輝きを味わい尽くす。愛によって少しも自分が変形することなく、「上る位を入舞にして」、終わりに向かって次々により美しいおのれを見出すのである。
 少年の舞から始まった『世阿弥』は結果として白洲正子の幸福論となった。「舞うように生きた、舞うことが生きることだった」巨大な人間の生は、「幸福」という思いがけない角度から照射される時、仮面の顔に恥じらいに似た微笑を漂わせるのだ。

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