2014年11月18日火曜日

若きウェルテルの悩み ゲーテ



若きウェルテルの悩み ゲーテ

 

DIE LEIDEN DES JUNGEN WERTHERS

Johann Wolfgang von Goethe

 

覚書

 

p.6

奸計や悪意なんかよりも、誤解や怠惰のほうがよっぽどいざこざの基になるんだね。すくなくとも前の二つのほうがたしかに珍しいんだ。

 

p.44

人間が互いに苦しめあうくらい、ばかげたことはないんだ。ことに若い人たちがいっさいのよろこびにたいしてもっとも開放的でありうる人生の春にさ・・・≪略≫

 

p.50

(ロッテは子供に嘘を本当のように思わせている。それに対してある人から批判があったが、しかし・・・)

われわれは神がわれわれを遇するように、子供を遇しなければならない。神は心たのしい錯覚のうちにわれわれを酔ったように歩かせるときこそ、われわれを最も幸福にしてくれるのだ。

 

p.57

世の中のことは、どんなこともよくよく考えてみればくだらないのだ。だから自分の情熱や自分の欲求からでもないのに、他人のため、金のため、あるいは名誉とか何とかのためにあくせくする人間はいつだって阿呆なのだ。

 

高橋義孝氏の解説より

p.206

主人公ウェルテルの無限への衝動、豊かな感情は、同時にゲーテ自身のものでもあったが、ただ一つ、作者ゲーテに見られるような創造的な精神が主人公に欠けているという点が決定的な違いである。ひたすら自己の感情に忠実で、青春のエネルギーのすべてをもっぱら自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応し、そこに自己の生活を築き上げることを知らない成年の悲劇が『ウェルテル』なのである。後年ゲーテは、「『ウェルテル』は、厭世という病的状態から生まれたものであり、あの時代の病的風潮であったセンティメンタリズムを文学的に記録した小説である」と言っている。

 

小さな感想

自殺をたどる精神状態に肉薄した作品。

登場人物の置かれたある意味究極の状況を疑似体験したことで、人の心の危うさを体感した。

私が文学者になったとしても、自殺をテーマに作品を書き上げることは恐ろしくてできない。私自身が最後までいってしまいそうで。

自殺をここまで追究したゲーテに、脱帽。

あと、ちりばめられた人生の教訓がよかった。


DIE LEIDEN DES JUNGEN WERTHERS

Johann Wolfgang von Goethe

 

覚書

 

p.6

奸計や悪意なんかよりも、誤解や怠惰のほうがよっぽどいざこざの基になるんだね。すくなくとも前の二つのほうがたしかに珍しいんだ。

 

p.44

人間が互いに苦しめあうくらい、ばかげたことはないんだ。ことに若い人たちがいっさいのよろこびにたいしてもっとも開放的でありうる人生の春にさ・・・≪略≫

 

p.50

(ロッテは子供に嘘を本当のように思わせている。それに対してある人から批判があったが、しかし・・・)

われわれは神がわれわれを遇するように、子供を遇しなければならない。神は心たのしい錯覚のうちにわれわれを酔ったように歩かせるときこそ、われわれを最も幸福にしてくれるのだ。

 

p.57

世の中のことは、どんなこともよくよく考えてみればくだらないのだ。だから自分の情熱や自分の欲求からでもないのに、他人のため、金のため、あるいは名誉とか何とかのためにあくせくする人間はいつだって阿呆なのだ。

 

高橋義孝氏の解説より

p.206

主人公ウェルテルの無限への衝動、豊かな感情は、同時にゲーテ自身のものでもあったが、ただ一つ、作者ゲーテに見られるような創造的な精神が主人公に欠けているという点が決定的な違いである。ひたすら自己の感情に忠実で、青春のエネルギーのすべてをもっぱら自己の内部に向けるのみで、現実の社会に適応し、そこに自己の生活を築き上げることを知らない成年の悲劇が『ウェルテル』なのである。後年ゲーテは、「『ウェルテル』は、厭世という病的状態から生まれたものであり、あの時代の病的風潮であったセンティメンタリズムを文学的に記録した小説である」と言っている。

 

小さな感想

自殺をたどる精神状態に肉薄した作品。

登場人物の置かれたある意味究極の状況を疑似体験したことで、人の心の危うさを体感した。

私が文学者になったとしても、自殺をテーマに作品を書き上げることは恐ろしくてできない。私自身が最後までいってしまいそうで。

自殺をここまで追究したゲーテに、脱帽。

あと、ちりばめられた人生の教訓がよかった。

2014年11月13日木曜日

白洲正子 『世阿弥』を読んで

世阿弥 ―花と幽玄の世界―
白洲正子
講談社文芸文庫


心に残った部分書き出し。

*世阿弥にとって幽玄とは(p.120-121)

「我と工夫して、その主に成り入るを、幽玄の境に入るものとは申すなり」
幽玄は外部にはない、ただ工夫をつくしてみずから幽玄と化す。
幽玄すら物真似の一部。
武士の憧憬であった王朝文化の理想を獲得するため、代々の将軍が、貴族を手本としながら、ついに果たすことのできなかった夢を、世阿弥が舞台に実現した。
こうして和歌の道を離れ、貴族の手から民衆的な、明るい舞台に移されていった。

*総合芸術であるお能(p.127)

お能は、一口に総合芸術と呼ばれますが、それはドラマと舞踊、シテ方と狂言と囃子方、そういったものの集まりというだけでなく、いくつかの申楽、田楽、呪師、延年、曲舞、白拍子、傀儡など、当時行われたあらゆる芸能の集大成とみていいのです。
それらはやがて消え去る運命にありましたが、大和申楽に圧倒されたというより、その中に吸収されたという方が正しいでしょう。

*象徴と神秘の能(p.142)

お能はよく神秘的な芸術といわれますが、ただいたずらに神秘的なのではない、物の初めの無垢な姿を、いかにして舞台に再現するか、その工夫と技巧が、謎めいた様相をあたえているにすぎません。神秘化したのは、むしろ後世の人々の罪で、勿体づけるために、ことさら秘密主義にしたのですが、世阿弥の秘事や口伝には、そんな虚栄めいたものはなく、あるいは初心、あるいは花と名付けて、ひたすらその純粋性を守ろうとした。

*仮面の芸術(p.148)

面も、はじめは信仰から生まれたもので、今でも方々の神社に、ご神体としてまつられていますが、翁の能でみたように、それを役者がつけて舞い、神様の物まねをやった後、再び神社に収めたものでしょう。が、だんだん演技が発達するにつれ、役者も見物もそれでは満足しなくなって、ドラマがそこから生まれてくるとともに、仮面劇も信仰をはなれて、舞台芸術に成長していきました。

仮面を仮面のまま高度な芸術に育て上げたのはおそらく日本人だけで、それはたとえば原始的な焼き物の中から、お茶の茶碗を発見したことや、あるいは自然の風景を人工の庭に取り入れた造園法などとも共通するものがあると思います。

世阿弥が人間の姿を「花」と呼んだのも、ただ美しい花にたとえたのではなく、ある特定な花でもなく、移り変わるところに美をみたことは、前に書きました。能面もそれと異なるものではない。
 


*白洲正子の幸福論 水原紫苑の解説より(p.216-218

  人間の命は終わっても、終わりのない能の世界と、生涯初心を貫いて芸が上り坂のまま、これが最期という時もなく終わる名人の人生とは、「奥を見せない」深い美しさで一致する。

『花鏡』を書いた世阿弥の心中に去来していたのは、裏腹のままならない嘆きであったかもしれないが、たしかにこれこそ、普遍的な人間の幸福への道にちがいない。甘美な果実のような幸福ではなく、月光にきらめく塩のような幸福である。そしてまさに、白洲正子はこの幸福を実現しようとしている人なのであろう。

「度々いいますように、世阿弥の一生をつらぬいている思想は、今の言葉でいえば一種の幸福論ですが、晩年におそった数々の不幸は、天が与えた試練のようにも見えます。が、世阿弥の芸は、もうその頃には、時世や逆境の前にびくともしない、見事な人間を作り上げていました。」
 
 世阿弥は、最後には、舞台からも、申楽からも解放され、宇宙の調和の中に没した感があると語るのだ。 

 著者が出逢った世阿弥の「花」は白日の下に明るく開き、「幽玄」もまた翳りなく明るい。中世の「稚児」への愛も明るく美しいのである。九十九パーセントの闇に支えられた一パーセントの光を、それと知りつつ愛でるのが白洲正子の精神である。潔さでもあり、最も深いデカダンスでもある。
 本当の意味で「個」の悦楽を知る人とは、著者のようであるにちがいない。愛したいものを愛し抜き、そのいのちの輝きを味わい尽くす。愛によって少しも自分が変形することなく、「上る位を入舞にして」、終わりに向かって次々により美しいおのれを見出すのである。
 少年の舞から始まった『世阿弥』は結果として白洲正子の幸福論となった。「舞うように生きた、舞うことが生きることだった」巨大な人間の生は、「幸福」という思いがけない角度から照射される時、仮面の顔に恥じらいに似た微笑を漂わせるのだ。

ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎 

2014/9/13~11/9
上野の森美術館



 
 

北斎といえば、冨嶽三十六景!(とくに、 神奈川沖浪裏・・・荒波と富士山・・・)

就活の面接で東京遠征しているときに、空いた時間を使って上野の森美術館に行ってきました。

平日の朝一。

ふぅん、外国に貴重な日本美術が大量にあるなんて悲しいことだな、とか思いながら見に行ったのですが、この浮世絵の美しさよ、保存状態の良さよ!

やはりボストン美術館の所蔵状態がよかったのでしょう、色彩鮮やかで江戸後期の作品とは思えない圧巻の浮世絵展でした。

あと、率直に
・・・北斎は本当に絵が上手ですね・・・
人物、風景、妖怪、花・・・大変見ごたえのある展示。


江戸時代の人々の生活とか娯楽とか、風流とか、美人さんとか、北斎のまなざしを通して感じることができた贅沢な一日でした。

2014年11月4日火曜日

バリヒンドゥー教・祈りの国

バリ旅行記その2 かな。

メニューに豚の絵

ウブドで有名なイブ・オカの「バビ・グリン」
豚料理~




今回はバリヒンドゥー教の信仰について、感じたことを書いておきます。

まず、インドネシア全体でいえば、イスラム教を信仰しているのですが、バリ島だけは、歴史的経緯からヒンドゥー教を信仰しているそうです。

バリ島で豚が食べられることは、重要なポイントで、現地ガイドさんに、豚を食べてね、と何度もいわれました。
(はじめ、宗教的なことは意識していなかったので、何度も豚を勧められることに戸惑いました)



女性は日に何度も祈り、毎日お供え物を作り(バナナか何かの葉っぱで器を作り花や線香、菓子などを供えていました)・・・忙しそう!
どこへ行っても供え物がありました。

手で水を小さく撒く所作は、若い女性でもかなり手慣れてて、無駄もなく美しかったです。

門の石像にお供え

色彩鮮やか


男性は、白い服に身を包んで街を歩いている人らがたくさんいました。彼らは祈りに行くためにそのような格好をしていると聞きました。


毎日の生活に寄り添う信仰心。そして祈る回数は日に1度や2度ではないのでしょう。神の存在がこれほどまでに人の生活と近いことを肌で感じるのが不思議と心地よかったです。


(とはいえ、日本人のさまざまに手を尽くして、最後に神頼み!っていう、祈り、も日本人の粘りの精神が現れていて好きです。)

バリの人たちが祈っている内容は、個人的なお祈りではなく、「世の中の平和について」などらしいです。

(そういう祈りは、七夕のときくらいかな。)

今日は以上です。宗教については、まだまだ奥が深い・・・。


2014年11月3日月曜日

ジーキル博士とハイド氏 

Title : The Strange Case of Dr. Jekyll and Hyde
Author : Robert Louis Stevenson

ジーキル博士とハイド氏は二重人格の代名詞ですが、原作を読みました。

個人的には、ジーキル博士とハイド氏といえば・・・




ショーン・コネリー主演の『リーグ・オブ・レジェンド』に登場する
ジキル&ハイドの印象が強かったのですが(笑)、
今回新潮文庫の田中西二郎さんが翻訳したものを改めて読んでみました。


・薬が、容姿や背丈をも変える効果があるのですか、この非現実的設定に、少し軽い(いわゆる純文学とは少し違う)印象を受けました。

・しかし、やはり時代を超えて愛される名作。
最終話の「ジーキルの陳述書」に書かれていた内容を読んでいくうちに、本作品は、
人間の善と悪の心理に迫る文学作品であると理解しました。

・そもそも、田中氏の言う、内に秘めたる「悪心」を、今現在私は持て余していないので(笑)、非常に感情移入したり、ひざを打ってなるほどなるほどよく言ってくれた、というような読後感ではありませんでした。


興味深かったのは、田中氏が解説において行った、イギリスのunpleasantness
(ここでの、unpleasantnessとは、人が普通生活するにあたって、楽しくないことだといいます。)
を扱った二流の文学の存在を踏まえての考察です。


(イギリス人の性格として、楽しくないことは対外的に隠して生活したい。しかし、その反動として、娯楽作品に日ごろのunpleasantnessの鬱憤を晴らすようになるみたいで、それが、(仮)二流の文学へと向かうようです。例えば、犯罪、自殺、スキャンダルものが描かれた探偵小説やスパイ物語など。いわゆる純文学よりも一段低い眼で見られるそれらの中にも優れた名作も生まれると書かれてありました。


長くなりましたが、
そのunpleasantnessの典型的姿こそがつまりハイドであると、田中氏が言っていたのです。

・・・なるほど!
この考察は・・・目からうろこです。

海外文学も、その時代背景や国民性にまで目を向けると、より深い味わいがありますね。

今回も、解説に助けられました。

2014年11月2日日曜日

猫に癒される 

猫っていうのは本当にかわいい生き物ですよね

私は、猫といえば、
大学の時にお世話になった先生(恩師、と呼べる存在)が、大の猫好きでいろいろエピソードがあるのですが・・・

今日は、写真家の岩合光昭さん(公認HPはここをクリック)についてです。

私は国家一般職採用試験を受けたのですが、
志望官庁から内々定をいただいた後、2次試験の最終合格をいただかないと内定にはならないという仕組みがありまして・・・

この最終合格を1か月くらい何もしないで、悶々と過ごす時期があったのです。

この時期に(結構自信がある方も、どんどん不安になる時期なのでは?私はそうでした。)NHKで『岩合光昭の世界ネコ歩き』という番組が放送されてまして、録画して何度も見てました。

癒されます!ネコ大好きになりました。

欧州とかのきれいな街並みの中で暮らす猫もいいんですけど、
南アメリカとかアジアの発展途上の国で、自由気ままに生きる猫とか、
牧場の横でいろんな動物(牛とか豚とか犬とか)と対抗?しながら、
時には仲間になって生きる猫とかが好きでしたね~


ここで恩師の面白いエピソードを一つ。
わたしの恩師(経済政策を教えていました)は、大学での講義では頭の中にあることを教えてくださるんですけど、(レジュメなし。板書はテキトーな感じ。グラフだけとか。)
ときどきぼーっと教卓を眺めるんです。
学生はみんな、ノートでも確認してるのかなって感じなんですけど、
アレ、猫の写真を見てたのです。(文芸雑誌の切り抜き)

講義が終わると、最前列に陣取ってる生徒らに嬉しそうに今週の猫を披露してくれました。

「どう、今日の講義わかった?
 ああ、わからなくってもいいよー、来週も再来週もまた同じことしゃべるから~

 ところで、この猫、かわいいよねぇ~ ←(本題)

 僕、講義中に疲れたら、猫見てがんばるんだ~」

って感じでした。


懐かしいな。








2014年10月30日木曜日

『国宝鳥獣戯画と高山寺』 京都国立博物館

先日、
『国宝鳥獣戯画と高山寺』を見てきました。



京都国立博物館 立派な建物です

ふらっと知人と見に行ったのですが、なんと開催初日でした。(10月7日)
昼2時ごろ、入り口で20分ほど並び、中でも40分ほど並びましたね~

高山寺は、明恵上人が後鳥羽上皇から学問所として賜った建物らしいんです。この明恵上人というのが、紀州出身で、和歌山県民の私は嬉しかったです。

(その後、大学図書館で、白洲正子さんの著書『明恵上人』を読みました。良作。)

鳥獣戯画について。

平安時代後期に成立したとされる甲巻・乙巻、鎌倉時代の丙巻・丁巻の全四巻からなる。墨線のみで描かれた白描画の絵巻で、遊び心にあふれた戯画の代表作。江戸時代以降、鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)の作と伝えられるなど諸説あるが、いまだ作者は不明であり、高山寺に伝わった由来も定かではない。公式HPより

・・・・・・・うん、かわいかった!

やー、鳥獣戯画見に行ったんですけど、明恵上人が私のツボでした。
高山寺も機会があれば行ってみたい!

チケット半券と、ポストカード




2014年10月29日水曜日

ドラマ SUITS

私が大好きなドラマ!



アメリカのドラマは面白いのが多いけど、
今、一番のお気に入りが、スーツ。

知的でスタイリッシュで、
本当にかっこいい、退屈しないドラマ!

私は字幕で見るのが好き。

season1しか見てないけど、どんどん面白くなるらしい(口コミ)ので、期待してる。

2014年10月27日月曜日

バリで通ったレストラン

ガバ レストラン

姉といったバリ旅行。

日本では普通の料金で、超贅沢を味わえる・・・。

街中では変な日本語で声をかけられるし、女子2人じゃ不安も多く・・・

夜は速攻ホテルに帰り、ガバレストランで夜ご飯を毎日いただきました~


350円くらいでカクテルとか頼めて、
    
バリ料理もおいしかったなぁ~

ライトアップされたプールを見ながら、贅沢な時間だった~

そういえば、夜は風が吹いてて、過ごしやすかった。


2014年10月25日土曜日

my beautiful life in japan

 

就活が終わった。
春から東京で働けるなんて夢みたいだなぁ

夏に就活で泊まり込んでいたユースホステル
 
 
 
最近は

TOEIC
美術館めぐり
日本の伝統芸能
書道

を気にして生活してた。ライフワークにできたらいいなって感じ。

飽きたら離れて、また戻って。

楽しく生きる。


ちょっと自分の知識を広げながら書くブログにしたい。
体験したことをかみ砕く、自分のものにする、みたいな。




 

みたままつり


靖国神社の「みたままつり」の写真。
最終日(2014.7.16)に行ったかな。忘れちゃったけど。

 
 
とても暑い夏だった。